距離を置くってなんだろう

 私雪だんごは何かと浮きがちな人間である。端的に言えば馴染みにくい人間である。周りとは距離を置いている、もしくは置かれている人間である。

 腱鞘炎で指が動かなくなり、ゲームを制限させられた。会話能力の低さから他者との交流を制限した。しかし、時々私は欲望に従ってゲームを再び遊んでみたり、通話の誘いを持ちかけたりする。それは当然すぐに失敗し、自己嫌悪に陥る。そんなことがここ最近では多発している。

 ならば、私は全てをやめるべきなのだろうか。Twitterは一時期のように浮上をやめ、他者との交流を一切断ち切り、全ての娯楽を捨てるべきなのだろうか。一見考えるまでもなく「それは違うんじゃないか」と思えるような発想だが、方向性はあながち間違っていないようにも感じられる。全てを断ち切ることが距離を置くことなのだろうか。距離を置いてでも遠距離的に関わると言う選択肢が存在したとして、私はそれを正しく行うことができるのだろうか。

 今の私にはわからない。だから、とりあえずで今日の私が満たされるような行動を選択している限りである。これが人に距離を置かれる一番の理由なのだと、自分でも理解していながら。

東方原作を去り、東方原作に出会う。

 私雪だんごは東方をやめた。それは以前にも話したことである。腱鞘炎の悪化から東方原作STGの引退を決意した。そしてそれは今でも続けている。時々、指を動かしておいた方が快復も早いのかな、などと考え数十分程度起動することもあるが、それでもかなり厳しいため、当分復帰することはないと思われる。

 東方原作STGを遊べない。それは、「原作で魂魄妖夢と関わることができない」ことを示していると思っていた。しかし私は大きな見過ごしをしていたのである。それは、東方非想天則の存在である。そこに、彼女はいた。別れは唐突になどやってこないのであった。

 今、私はキーコンを変えて天則を遊んでいる。自身の指を鼓舞しながら、強敵に立ち向かう日々。その努力に応じて、どうやらこの二ヶ月で私の実力は相当に成長してくれているようだ。諦めないこと。キャラ愛は挫折をも克服する。

 

おやすみなさい

 私は東方好きではない。あくまでしがない妖夢好きである。しかし、東方原作を好んで遊んでいるのも事実。ジャンルの隔たりなくゲームができるのが特技、と言い続けている私だが、原作STGはどうやらその中でも得意な部類のゲームであった。そう、確かに得意であったのだ。最高難易度であるLunaticのノーミスノーボムクリアが三作品。それぞれ、永夜抄風神録神霊廟。この中でも永夜抄神霊廟では妖夢を使って達成した。妖夢好きの所以である。妖夢が好きだからこそ、ここまで達成できたといっても何ら間違いではない。しかし、それは過去の栄光である。

 昨年11月ごろであろうか。気が付くと私は左手が開きにくくなっていることに気が付いた。手を握った状態から指を開こうとすると、小指、薬指、中指がガクガクとしてスムーズに開閉できないのである。わかりやすく言うと、ばね指の症状が出ていたのであるが、当時の私は忙しく、それを放置していた。元からこんなもんだろう、と思っていたが、それは誤算であった。放置しているうちに利き手である右手も開きづらくなっていることに気が付いた。手を握る、という動作はあまり頻繁に行う動作ではないから大丈夫、などと自分では思っていた。しかし手を動かしているうちに気が付いたのであるが、どうやらこの症状は「手を開いた状態から指を一定のところまで押し下げるようにすると指が開かなくなる」というものであることに気が付いた。これがどういうことかというと、ペンを握る、鍵盤を押す、そして、キーボードを押すという行為をするたびに指を上げられなくなってしまうということである。

 キーボードを押せない。正確に言えば、キーボードを連打できない。一度押すだけならまだしも、複数回指を押し下げ上げてと言う行為をすると、あっという間に腕のあたりと指がつったかのように痛くなり、とても動かすなんて考えられないほどになってしまう。さらに言うと、手首を回すと指に痺れが走るということも起こるようになっていた。日常生活に支障をきたすまでに至った故、私はようやく多忙の中病院へ向かうこととした。

 診察は簡単なものであった。「中度の腱鞘炎である」という旨をただ淡々と伝えるだけであった。それを聞いて私はほっとした。しかし、私の腱鞘炎には他の人の腱鞘炎とは違う点があった。それは、根本の治療が不可能、というものであったのだ。診てもらった病院は私が昔から頼っている病院というのもあり、かなり私の身体の構造などについては詳しく診てもらっている。そして、私の関節などの構造は遺伝的な問題が多く、簡単に言うと「関節が柔らかすぎて動きすぎるから簡単に変な方におかしくなってしまう」体質を持っているらしい。これはテーピング等で固定しても治るということはなく、そういう体質として受け入れるしかないそうだ。これ自体に問題はないのだが、これらによって引き起こされる症状についてはまた話が別である。体質による症状なのだから、その症状は対処療法でしか治癒できない。毎日痛み止めを飲むだとかそういうのである。治らない、のである。

 そうして痛み止めを飲む生活をするようにはなったが、痛みこそ減るものの動きづらさは全く軽減されない。要するにキーボードは押しづらいままである。あまりにキーボードの左端にある文字「A」や「S」が押しづらかったのでホームポジションを変えた。なるべく楽な体勢で過ごすようにした。それで文字は打ちやすくなったが、今度は変な角度で固定されたからか、所謂「WASD」移動ができなくなった。私はFPSの引退をよぎなくされた。頑張れば移動はできるのだが、SHIFTキー,CTRLキーが押しづらいのであまりそれらを押さないゲームを遊ぶようにしている。

 そろそろ言いたいことがお分かりだろうか。SHIFTキーが押せないということは、東方原作STGができないのである。あのゲームはSHIFTキーを押して避ける動作があまりにも多い。また、比較的動くとは言え右手もまだ動かしづらい。方向キーを押すのもなかなか手間である。また、私の左手は中指、薬指、小指をバラバラに動かせない症状上、ショットキー(Z)を押すと低速キー(SHIFT)も一緒に押してしまう。もちろん離せば逆になる。つまりショットを押しながらの高速移動、ショットを止めた低速移動が少しやりづらいのである。

 ここ最近忙しく、東方を遊ぶ時間はかなり減っていた。それが発見を遅らせる原因だった。久々に風神録を起動した私は、ほんの20分足らずで痛みからプレイの続行を断念することとなってしまったのだ。どうにも指が動きづらい中30分プレイできる日もあったが、それは不安定である。これは、私が東方原作をプレイすることを諦めねばならないという現実の突きつけであった。

 そうして、私は東方原作STGの実質的引退を宣言した。最近は指のリハビリもかねていろいろなゲームに挑戦しているが、やはり手首がつらい。今も2000字ほどこの記事に文字を書き連ねているが、かなり腕、手首が悲鳴を上げている。私はこの身体のSOSに従い、ここらでこの記事を締めようと思う。

 身体は貴重な自分のリソースである。失ってはならない。自らを大事にできない自分に、ようやく天罰が下ったのかもしれない。私はもう、FPSも、音ゲーも、STGもできない。私は少し休もうと思う。この知識、経験は無駄にはならない。そして、この感情こそは、かけがえのないものである。それを絵に記す旅に、私は出発しようと思う。休息とは、止まることを指すのではない。文字通り、「息」を「休」めることをいうのである。生き急いではならない。──否、息急いではならない、だろう。

 おやすみなさい。夜は皆平等に、今日もやってくるのである。明日も、そのまた明日も。

上手い付き合い方を見つけた気がする話

 メンヘラ雪だんごはTwitterをやめた。そして、これは5割成功した。5割失敗した。

 実は最近、私は再びTwitterのTLを見られるようになってきている。逆に言うと最近までTLを見られる元気もなかったということであるが。なぜ見られるようにまで回復したかというと簡単な話で、対人での上手い関わり方を見つけたからである。

 それはすなわち、人間をコンテンツとして見るという方法である。他人をフォロワー、友人などとは思わない。ただこういう情報を発信するアカウントなんだ、とだけ考える。それは性格や経験などから発せられる文章なのではなく、偶然その文字列が生成されただけだと考える。要は、アカウントに中身が存在しないと思い込むという話である。

 人間と関わるのが苦手なら、相手を人間だと思わなければいい。他人をコンテンツとして楽しむのは当人を嘲笑っている、性格を馬鹿にしているような気がして長い間避けていたのだが、私の心を保つためにはやむを得ない。そうすることで、今の私は時々Twitterを見ている。しかし、逆の立場から、すなわちこれを読んでいる人が私のTwitterアカウントを見て人格があるのだとは期待しないでくれ。私はもう文章に心を込めていない。ただ嘆いているだけ。他人をbotとして見ることで、自己もbotになったのだろう。しかし、私はせめて残り香をここに記したい。ここは私の心の墓場だ。心があったことを記し、私の心の存在を繋ぎとめる墓場なのだ。ブログには心を残している。そう、自分でも信じたいのだ。

【東方斑桜】斑鳩ライクの東方二次創作STGが面白すぎる


 ある日みょんなきっかけから、東方斑桜というゲームを見つけた。そのみょんなきっかけとは、東方二次創作ゲーをあまりやっていないなと気付き、ニコニコ大百科の二次創作ゲー一覧を探っていると「斑鳩」要素のある東方STGがあると知りプレイしたという次第である。DLsiteで即購入即ダウンロード即プレイ。そして即ハマり。非常に面白かった。

斑鳩とは

 斑鳩とは、株式会社トレジャーから発売された縦スクロール型STGである。「撃て!避けろ!そして…当たれ!」のコンセプトの通り、敵弾に当たることができるというSTGとしては画期的なシステムで世間を騒がせた名作。具体的には、自機は白と黒の属性を一つの操作で簡単に切り替えることができ、白属性の時は白弾を、黒属性の時は黒弾に当たることができるというもの。このシステムを利用することで、シューティングの一騎当千感・弾幕ゲームのパターン要素・パズルゲームの爽快感の3つを同時に味わうことのできるという非常に味のあるゲームなのである。
 しかし、その面白さの代償として、あまりにも理不尽すぎる難易度が適用されてしまった。具体的には以下の画像の通り。なんと1面クリア者の60%以上が2面クリアを諦めている。さらに言うと、難易度不問のノーコンティニュー達成率はまさかの0.9%斑鳩は名作であると共に人を寄せ付けないゲームでもあるのだ。

東方斑桜の面白いところ

 東方斑桜は、こんな斑鳩の要素をふんだんに取り入れている。細かい仕様について解説するときりがないためかいつまんで説明すると、このゲームには斑鳩同様の属性切替という概念がある。これだけでも十分斑鳩らしさを出していると言える。しかし東方斑桜は単に斑鳩のオマージュを入れただけではない。そこにスペルカードシステムや各キャラの弾幕の特徴、音楽、演出などを東方原作を想起させる形にしながら上手く両立させている。斑鳩と東方原作両方をプレイしたことがある人ならわかると思うが、特に音楽に関しては非常に素晴らしく、「このイントロ斑鳩で聞いたぞ!」ってなった数秒後には東方原曲のフレーズがオーケストラ音源で流れてきて、両作好きな私からしてみればとてもうれしかった。敵の出てくるタイミングや弾幕などは原作らしさを保っていて、解釈一致というところも素晴らしい。斑鳩のパクリなわけでも、東方原作のパクリなわけでもなく、相当高い水準でこれらを両立させているのは非常に素晴らしい点だと言える。

東方斑桜の辛いところ

 こんな良作にも弱点はある。既に何となく察している方もいるかもしれないが、このゲーム、とんでもなく難しいのである。それはそうだろう、高難易度で名高い二つを組み合わせたらそれはもっと難しくなるに決まっているのである。今回私は最低難易度最高残機でクリアしたが、プラクティスである程度パターン化したうえでギリギリのクリアであった。特にラストの難易度は異常で、反射神経が極端に遅い人に限ってはいくら残機があっても足りないんじゃないかとまで思わされた。東方斑桜では被弾後の無敵時間が非常に難しいため、連続被弾の事故があり得るのも難易度を恐ろしく上げている一つの要因だろう。しかし、こういう難しいゲームはやりがいがあるし、同人ゲームではこれくらいやってほしいと思うのも事実。実際、このゲームのマニュアルやおまけを読んでみると、作者さんも難易度調整にはかなり苦労されたようである。私は作者さんが「これくらいの難易度がふさわしい!」と決めたものに対してケチをつけることはしたくない。必死に難易度調整をしたことがうかがえるのならば、それに抗うのが我々シューターの役目である。万人に勧められる作品ではないが、斑鳩や東方原作が好きな人はぜひとも難しさに叩きのめされながらもプレイしていただきたいと思う。

総評

 斑鳩好きの東方シューターに超オススメ。高難易度でも構わないという方には是非ともプレイしてもらいたい一作である。Steamにも移植されると良いなぁ…………。
www.dlsite.com

↓同サークルさんの別の作品
store.steampowered.com

【ふもふも黒妖夢】ふもふもようむ。が届いたのでレビューしていく

 皆さまいかがお過ごしでしょうか。私は相も変わらず妖夢を愛でる毎日を過ごしております。雪だんごです。今回は新発売の妖夢のぬいぐるみが届いたのでそちらをレビューしていくという名の愛の発散記事でございます。以下常体。

概要

 こちらのぬいぐるみ、正式名称は「東方ぬいぐるみシリーズ63 【魂魄妖夢(東方LostWord 幽玄の剣聖ver.)】ふもふもようむ。ろすとわーどばーじょん」という。とても長い。なのでこの記事内では「ふもふも黒妖夢」と呼称することとする。

 まずふもふもシリーズについて。ふもふもとは、株式会社GIFTから発売されている「東方ぬいぐるみシリーズ」のことで、2008年8月に登場した「ふもふも霊夢」「ふもふも魔理沙」から続く、大人気ぬいぐるみシリーズである。現在では63種類ものぬいぐるみが発売されており、単にキャラが違うだけでなく、最近では全長70cmを誇る巨大ぬいぐるみなども登場している。その人気ぶりは異常なほどであり、在庫は常にゼロ、再販が来たら予約ページが落ちて1分で完売、絶大な人気からの海外でのmeme化と数々の伝説を残しており、転売系害悪サイトフリマアプリ「メルカリ」では定価約5000円にもかかわらずその3倍~4倍ほどの値段で取引されている有様である。ちなみにamazonの転売から買おうとすると30000円とか超えてることもあってもはや寒気がする。とりあえず転売ヤーは爆発してね。

現代社会における地獄図

 ……と、まあ言葉が荒くなってしまったが、そんな大人気なふもふもぬいぐるみに、今回特別受注生産という形でふもふも黒妖夢が登場した。予約さえすれば誰でも手に入る新設設計である。これはありがたい。ちなみに2022年5月27日から6月15日までの予約だったので、この記事を読んでほしくなったとしてももう手に入れることがはできない。まあ発売から1日ほどでもうメルカリに出品されてるんだけどね転売ヤー滅びろ
 で、そんなぬいぐるみが5か月経ってようやく届いた。全て手作業で作られているらしいので納得の時間ではあるが、やっと届いて本当に嬉しい限りである。では細部について見ていこう。

詳細

 まず、こちらの黒妖夢、「ろすとばーじょん」と銘打っている通り東方LostWordが原作かと思うかもしれないが、おそらくこれは東方非想天則での2Pカラーが元ネタであろう。黒い髪、黒い服、紅い眼などがその共通点である。

かわいい

で、改めてふもふも黒妖夢の全体像を見てみると、このようになっている。なお缶バッチに関しては深く言及はしない。

前後横

 大きさは参考程度だが、高さ23cm、横16cm、奥行19cm程度になっている(いずれも楼観剣の大きさを除いたもの)。
 なるほど、カチューシャの構造、半霊、楼観剣や白楼剣の装飾にベストやスカートの模様まで凝ってある。流石の出来だ。前髪の下には眉毛が隠れており、フェルト質の前髪をめくるとしっかりそれの存在を確認できる。更にこの角度から見るとわかることだが、ベストの下の肌がしっかりと用意されているのが好感が持てる。あと下着はドロワーズタイプのようである(全世界に発信してごめんね)。

 ちなみにこの楼観剣と白楼剣、なんとマジックテープで固定されているだけであり、着脱式。他のふもふもぬいぐるみなどを持っていればその子に持たせることもできる。

 
 触った感じはふもふもというよりはにぎにぎ、といった感じが近いだろうか。全体的にしっかりとした造りであり、パーツの一部分が歪むというような心配はないだろう。しかしそれでいてぬいぐるみ特有の柔らかさは維持している。流石天下のGIFT様である。唯一購入前に心配していたのは妖夢のチャームポイントとも言えるリボン付きカチューシャのリボンの安定性であるが、まずカチューシャが革素材でしっかりしていること、そして接着部位のリボンの結び目が大きいためかなりしっかりと縫われている事を考えると壊れる心配はないと言って良い。それよりはむしろ、スカートの一か所のみに接着されている半霊の方が気になりはする。ただ、ここも接着部位が広いためそうそう壊れることはないだろう。まとめると、耐久性に関しては全くの心配はいらないだろうということだ。洗濯表示はないようであるが、おそらく手洗いしてしっかり天日干しすれば壊れることもないだろう。

 ちなみに株式会社MOVIC様から発売されている「だるぐるみシリーズ」の妖夢と比べるとこんな感じ。写真だとわかりづらいかもしれないが、ふもふも黒妖夢の方が僅かに一回りほど大きいようだ。

総評

 とてもかわいい。デザイン、触感、耐久性、どれを取っても文句無しの星5である。妖夢好きなら誰もが手に入れるべき一品。持っていないという人はぜひとも次の再生産を待つべきだ(特別バージョンだし再販あるとは限らないが)。また、元デザインである通常のふもふも妖夢に関しても2023年3月に届く予定なので、そちらも楽しみである。

おまけ

 GIFT様の新作ぬいぐるみシリーズに妖夢が登場している。妖夢好きならこちらも買うべきではないだろうか。11/21までの数量限定予約受付である。執筆時点(11月14日午前5時時点)ではまだ量が残っているようなので興味のある方は急げ。ちなみにこちらのぬいぐるみ、私は既に秋例大祭にてゲットした。とてもキュートでかわいらしいぬいぐるみであるということをここに記して、この記事の締めとさせてもらう。
www.amiami.jp

「死ぬな」とは言わないけど

 メンヘラは軽率に死にたいと発言する。軽率である。実に、実に軽率に死にたいと言う。しかしそれを見て健常者が「なら死ねば良いじゃん」などと言うのはあまりにもずれている。人間、死ねないから「死にたい」と発言するのである。これは別のものに置き換えるとわかりやすい。「早く家帰って遊びたい」と言っている人間に、「なら早く帰ればいいじゃん」などと言うのがおかしいのは理解できるだろう。仕事なり学校なりで家に帰れない用事があったり、時間的余裕がなくてその日は遊べなかったりするから「遊びたい」と発言するのである。

 だがしかし、軽度の希死念慮なら良いものの、それが進行して自殺行為に手を出し始めるメンヘラも存在する。それは、先程の遊びたい人間の例で言うならば、仕事を終えて帰宅した状態である。遊ぶ準備はできているのである。だが人間の体は都合悪く強くできているもので、飛び降りようが首を吊ろうが練炭焚こうがODしようがリスカしようが、まあ手段はなんであれ確実に死ぬということはできない。つまり、自殺行動はゴールではないわけである。

 稀に、自殺を考えていなくてもこの自殺行動自体がゴールとなり、依存する人間も存在する(例えば2,3年ほど前の私である)。この状態になると、繰り返しているうちに運が悪いといつかは死ぬ。いや運が良いと表現するべきであろうか。ともあれ、この段階まで来ると死と隣り合わせなわけである。

 ここまで話した上で本題に入ろう。先に断っておくと、ここから話すことは私の"友人"に希死念慮がある仮定の話であり、一般人の希死念慮になど私は全く興味がないことを表記しておく。

 自殺を計画し、そのまま一度で死んだ人に対して、私は「死ぬ前に言ってほしかった」や「死なないでほしかった」などと追悼の言葉を述べるつもりはない。むしろ、「一度で死ねてよかった」などと胸をなで下ろす心地になるだろう。まさしく、欧米圏でいう「Rest in Peace」であり、日本でいう「ご冥福をお祈りします」なのであろう(私はこれらの言葉が嫌いなのであるがそれはまた今度話すこととする)。しかし、一度で死ねたのではなく、何度も何度も死のうとした挙句、結局死んだ人、もしくは死ねなかった人に対して、「死ねてよかったね」や「次こそは死ねるといいね」とは言う気になれない。それはなぜか。
 答えは簡単で、私が単純に見ていられないのである。現世に苦しみ、もしくは諦め、自ら死を選んだのにも関わらず、死ねない。死ぬ過程で再び苦しむ。それを憂い再び現世で生きようとし、苦しむ。友人が苦しみ続けているのを黙って見ているのは、単純に助けになれない無力感を通り越して絶望感をも抱かせる。

 私はその友人の力になることはできない。生を諦め死を手伝うこととすれば、それは自殺幇助であり私は犯罪者となる。これもまた悲しいことではあるが、私は他人が死ねない苦しみよりも自分が檻の中で生きる苦しみの方が重いと捉えているらしい。だから、自殺を手伝うことなんてできない。反対に、その人の死を諦め生を手伝うこととすれば、それは単純に私の解決能力のなさが仇となる。会ったことすらないネットの友人であれば話を聞くくらいしかできないし、仲の良いリアルの友人であろうとも、自分の時間や資産全てを投げ売ってまでその人を助けることはできない。それは労力的、体力的にもそうであるし、自分の方が可愛いというこれもまた愚かな精神が仇となっているのでもある。そもそも、私は自分を生かすことすら不安定なメンヘラであるのだから、他人一人を生かすなんてできないというのもまあ当然の理由にはなろう。

 だから、私は死にたがる友人を助けることなどできない。相談を聞く、一緒に遊んでストレスを減らすくらいならできるかもしれないが、その人が死にたいと思う根本的理由(生活や借金といった財産、職場や学校、恋愛などの人間関係、多忙などからの異常なストレス、etc……)を解決することは全くできないのである。実に悲しいことである。そして、こんな無力な私が、「生きろ」や「死ぬな」、もしくは「生きるな」「死ね」などと発言できるだろうか? 解決能力がないということを、現代社会では「責任が取れない」と呼ぶ。先ほど挙げた発言は、全て「無責任」な発言なのである。

 私は責任が持てない。その人の生にも死にも。だから、私は他人に「死ぬな」が言えない。ただもちろん、私は我儘であるから、大切な友人を失いたいなんて思わない。ただ、その人の真の幸福が「自殺」であるのなら、私はそれを黙って見送るべきでもあるのではないかとも考えてしまう。誰にも見せられない、真の心の中で「貴方に生きてほしい」と願う心があれど、一部の人間に見せる建前の心は「死ねるといいね」であり、その人が無事(?)死ねたのならば、本心は「居なくなって寂しい」であるのに、建前では「……ご冥福をお祈りします」なのである。私は、その人のため、大嫌いなこの言葉をかけなければならない。「ご冥福をお祈りします」は別れの言葉である。死者を黙って見送る「さようなら」という別れの挨拶なのである。私は、死者にだって「またね」と言いたい。別れを認められない私の幼稚な心ゆえ──私はその言葉を嫌う。だが、これは単に幼稚なわけではないと信じたい。友人がいなくなったら誰でも寂しいものだ。その感情を押し殺すことよりも、他人を助けようとどうこう人のために尽くす、独善的ではあるものの献身的であり同時に社会的でもある行為の方が、私は「大人」な行為であると信じている。

 もしこれを読んだ貴方が自殺行為に手を出したことがあるからといって、どう行動を変えてほしいわけでもない。先ほどからずっと述べているように、死ぬのをやめろとも早く死ねとも言わない。ただ、普段人の死など全く気にかけていないような私雪だんごであっても、大切な友人とは死別したくないのだということを、今だけ知っておいてほしい。このページを閉じたのならもうその見聞は忘れてもらって構わない。どうか、今だけ。この文章を読んでいる時だけ、私の心を知ってほしい。

 だから、死にたがりな貴方がこれを読んだのなら、もうこの文章を読むこと勿かれ、と私は強く願う。これを読む二度目の時は、内容を覚えていた上で自殺行為に手を出し、結局また死ねなかった思いから戻ってきた時であろうから。(そうではなくただ記憶力がないだけでこの文章を二度読んでしまっただけなのなら…………同情する。)

 またねなんて言わない。さようなら。違う記事でお会いしましょう。