「死ぬな」とは言わないけど

 メンヘラは軽率に死にたいと発言する。軽率である。実に、実に軽率に死にたいと言う。しかしそれを見て健常者が「なら死ねば良いじゃん」などと言うのはあまりにもずれている。人間、死ねないから「死にたい」と発言するのである。これは別のものに置き換えるとわかりやすい。「早く家帰って遊びたい」と言っている人間に、「なら早く帰ればいいじゃん」などと言うのがおかしいのは理解できるだろう。仕事なり学校なりで家に帰れない用事があったり、時間的余裕がなくてその日は遊べなかったりするから「遊びたい」と発言するのである。

 だがしかし、軽度の希死念慮なら良いものの、それが進行して自殺行為に手を出し始めるメンヘラも存在する。それは、先程の遊びたい人間の例で言うならば、仕事を終えて帰宅した状態である。遊ぶ準備はできているのである。だが人間の体は都合悪く強くできているもので、飛び降りようが首を吊ろうが練炭焚こうがODしようがリスカしようが、まあ手段はなんであれ確実に死ぬということはできない。つまり、自殺行動はゴールではないわけである。

 稀に、自殺を考えていなくてもこの自殺行動自体がゴールとなり、依存する人間も存在する(例えば2,3年ほど前の私である)。この状態になると、繰り返しているうちに運が悪いといつかは死ぬ。いや運が良いと表現するべきであろうか。ともあれ、この段階まで来ると死と隣り合わせなわけである。

 ここまで話した上で本題に入ろう。先に断っておくと、ここから話すことは私の"友人"に希死念慮がある仮定の話であり、一般人の希死念慮になど私は全く興味がないことを表記しておく。

 自殺を計画し、そのまま一度で死んだ人に対して、私は「死ぬ前に言ってほしかった」や「死なないでほしかった」などと追悼の言葉を述べるつもりはない。むしろ、「一度で死ねてよかった」などと胸をなで下ろす心地になるだろう。まさしく、欧米圏でいう「Rest in Peace」であり、日本でいう「ご冥福をお祈りします」なのであろう(私はこれらの言葉が嫌いなのであるがそれはまた今度話すこととする)。しかし、一度で死ねたのではなく、何度も何度も死のうとした挙句、結局死んだ人、もしくは死ねなかった人に対して、「死ねてよかったね」や「次こそは死ねるといいね」とは言う気になれない。それはなぜか。
 答えは簡単で、私が単純に見ていられないのである。現世に苦しみ、もしくは諦め、自ら死を選んだのにも関わらず、死ねない。死ぬ過程で再び苦しむ。それを憂い再び現世で生きようとし、苦しむ。友人が苦しみ続けているのを黙って見ているのは、単純に助けになれない無力感を通り越して絶望感をも抱かせる。

 私はその友人の力になることはできない。生を諦め死を手伝うこととすれば、それは自殺幇助であり私は犯罪者となる。これもまた悲しいことではあるが、私は他人が死ねない苦しみよりも自分が檻の中で生きる苦しみの方が重いと捉えているらしい。だから、自殺を手伝うことなんてできない。反対に、その人の死を諦め生を手伝うこととすれば、それは単純に私の解決能力のなさが仇となる。会ったことすらないネットの友人であれば話を聞くくらいしかできないし、仲の良いリアルの友人であろうとも、自分の時間や資産全てを投げ売ってまでその人を助けることはできない。それは労力的、体力的にもそうであるし、自分の方が可愛いというこれもまた愚かな精神が仇となっているのでもある。そもそも、私は自分を生かすことすら不安定なメンヘラであるのだから、他人一人を生かすなんてできないというのもまあ当然の理由にはなろう。

 だから、私は死にたがる友人を助けることなどできない。相談を聞く、一緒に遊んでストレスを減らすくらいならできるかもしれないが、その人が死にたいと思う根本的理由(生活や借金といった財産、職場や学校、恋愛などの人間関係、多忙などからの異常なストレス、etc……)を解決することは全くできないのである。実に悲しいことである。そして、こんな無力な私が、「生きろ」や「死ぬな」、もしくは「生きるな」「死ね」などと発言できるだろうか? 解決能力がないということを、現代社会では「責任が取れない」と呼ぶ。先ほど挙げた発言は、全て「無責任」な発言なのである。

 私は責任が持てない。その人の生にも死にも。だから、私は他人に「死ぬな」が言えない。ただもちろん、私は我儘であるから、大切な友人を失いたいなんて思わない。ただ、その人の真の幸福が「自殺」であるのなら、私はそれを黙って見送るべきでもあるのではないかとも考えてしまう。誰にも見せられない、真の心の中で「貴方に生きてほしい」と願う心があれど、一部の人間に見せる建前の心は「死ねるといいね」であり、その人が無事(?)死ねたのならば、本心は「居なくなって寂しい」であるのに、建前では「……ご冥福をお祈りします」なのである。私は、その人のため、大嫌いなこの言葉をかけなければならない。「ご冥福をお祈りします」は別れの言葉である。死者を黙って見送る「さようなら」という別れの挨拶なのである。私は、死者にだって「またね」と言いたい。別れを認められない私の幼稚な心ゆえ──私はその言葉を嫌う。だが、これは単に幼稚なわけではないと信じたい。友人がいなくなったら誰でも寂しいものだ。その感情を押し殺すことよりも、他人を助けようとどうこう人のために尽くす、独善的ではあるものの献身的であり同時に社会的でもある行為の方が、私は「大人」な行為であると信じている。

 もしこれを読んだ貴方が自殺行為に手を出したことがあるからといって、どう行動を変えてほしいわけでもない。先ほどからずっと述べているように、死ぬのをやめろとも早く死ねとも言わない。ただ、普段人の死など全く気にかけていないような私雪だんごであっても、大切な友人とは死別したくないのだということを、今だけ知っておいてほしい。このページを閉じたのならもうその見聞は忘れてもらって構わない。どうか、今だけ。この文章を読んでいる時だけ、私の心を知ってほしい。

 だから、死にたがりな貴方がこれを読んだのなら、もうこの文章を読むこと勿かれ、と私は強く願う。これを読む二度目の時は、内容を覚えていた上で自殺行為に手を出し、結局また死ねなかった思いから戻ってきた時であろうから。(そうではなくただ記憶力がないだけでこの文章を二度読んでしまっただけなのなら…………同情する。)

 またねなんて言わない。さようなら。違う記事でお会いしましょう。