私の創作に対する考え方 その1

 この記事は、私の価値観についての記事、つまり「お気持ち表明」に近いものである。それでも良いという方のみこの先を読んでいただきたい。

 まず、創作とは何か。一次創作にせよ二次創作にせよ、この世界では私は創作を「実在するか否かを問わず、自身に秘められたる何らかの思想を五感で認識できるモノに昇華する行為」と私は捉えている(以後、このモノの事を"創作物"や"作品"と形容する)。音楽であれば聴覚を、映像であれば視覚を使うわけであり、なるほど作品は五感で認識できる。一般には、「創作とは新しく物を作り出す行為」とされているが、ここでは前者の私の定義でこの先の文章を書かせていただく。後者の定義を使ってしまうと、偶然誰かと同じものを作ってしまった場合、その行為を創作というのかという問題が発生してしまうからである。

 創作の楽しみについて考えてみよう。

 創作を鑑賞する側の人間は、直接これらを認識することで楽しんでいることは少ない。大体の場合は、創作物を認識し、そしてその創作物に対して「思考」することで楽しんでいるのである。例えば、映像作品を見れば「この情景は綺麗で美しい」とか、「この形は幾何学的で興味を引かれる」とか……音楽であれば「この声は綺麗だ」とか、「この楽器の音が心地良い」とか。映画のようにストーリーを伴うものであれば、余計に脳を使う。つまり、人間は創作物を鑑賞する際に、「五感を通じ、そしてそれを脳を通すことで初めて作品に価値を見い出す」のである。

 では逆に、創作する側。鑑賞される物を作る側の人間にとっての楽しみとはなんであろうか。これは非常に難しい問いである。作る過程そのものに楽しさを見出す人もいれば、創作を完成させることに充実感を見出す人、はたまた創作物を公表することに楽しさを見出す人もいる。しかし、現代社会においては殆どの場合が「創作物を公表すること」を重視する人が多いのではないだろうか。

 インターネットというものは便利なもので、誰でも情報を発信できる。当然、自分の創作物を公開する人は非常に多い。これにより、創作物を鑑賞する側は多くの作品を楽しむことが出来るし、創作物を公開する側は作品が多くの人に触れてもらえる機会を作ることが出来る。しかし、インターネットの存在は良いことばかりではない。こんな恵まれた環境のせいか、創作物を作ることそのものでなく、創作物を公開することだけを最初から創作の楽しみと捉え、創作活動を始める、もしくは創作活動を続ける人がいるのである。私はこれらの創作を「不純である」と言わざるを得ない。

 何故、それらの行為が不純であるのか。答えは簡単であり、これは創作外の行為を創作という行為の一環に含むことになるからである。
先程、私は創作を「思想をモノに昇華する行為」と表現した。言い換えれば、創作することにより他者から認識できなかった「思想」が、外部から認識できるようになる「モノ」に変化するのである。しかし、初めから創作する楽しみが「他者に認識してもらいたいから」であった場合、当然この目的も思想の一種であるため、同時にこの目的をも含んだ状態で作品として変化する。欲望が作品に混ざってしまう、だから不純であるのだ。

 ここで反論がある人もいるであろう。「欲望が不純な思想であり、純粋な思想ではないなどと決めつけるのは勝手な決めつけである」と。しかし考えてみよう。思想とは、本来秘められているものである。言葉や作品など、五感で捉えることができるようになって、初めて人の思想がどういうものかがわかるのである。普段秘められているため、この思想というものは他者を必要としない。他者が居なくても思想というものは自己完結するものであり、だからこそ「思想」を「モノ」に変化させた時、その「モノ」は自己完結する素晴らしさを持っているのである。

 わかりやすくする為に例を出そう。例えば、Aというキャラクターが好きな人がいるとしよう(読者の皆はAの部分に自分の推しを当てはめると良い)。そして、この「Aが好き」というものは思想である。別にこの世界にその人しかいなくてもその人は「Aが好き」であろうし、「Aが好き」だからこそ、Aの好きな部分をイラストであったり小説であったりで表現するであろう。別にキャラクターに限らずとも、「〇〇が好きだから創作したい」という普遍的な思想は、画家であれ、小説家であれ、音楽家であれ、自分の中で「こういう好きなものを作りたい」という、これだけで自己完結する考えに繋がっているのはわかっていただけるだろう。

 しかし、「他者に見られたい」という欲望の場合はどうであろう。これは他の人がいなかったら創作をしないということであるし、自分の作品が他者から人気でなければ創作を辞める可能性もある。つまり、この自己完結しない思想が原因で、創作そのものが他者の存在や感想に依存してしまっているのである。このような、創作そのものを不安定にしてしまう創作目的を、不純であると言わずしてなんと言うのか。こんな目的は自身の創作活動を破壊してしまう。とても勿体ないことではないか。

 当然、そんな不純な創作は不純な作品を生み出してしまう。断っておくが、人の五感から捉えて下手な作品というわけではない。絶対に人気になりたいという欲求の元で作られた曲は音楽理論などもしっかり学ばれた上で創作されたであろうから、素晴らしい出来のものであるはずだ。沢山の人に再生されることで動画投稿で稼ぎたいという欲求の元で作られた動画は、さぞかし面白い内容になっていることだろう。しかし、その創作の本意を知ってしまった時、私は幻滅してしまうだろうし、仮に本意を聞かされなかったとしても、創作からにじみ出る、何気ない「これウケ狙ってるだろうな」のような思想を私は作品から感じ取ることになるだろう。そうなってしまえば、それを純粋に芸術として鑑賞することはもう楽しめなくなってしまう。

 これらをまとめると、「最初から公開することに目的を置いた創作は、欲望が作品に混ざってしまい、創作活動そのものを不安定にしてしまうものである」ということである。私は、創作する側の人間には創作することそのものに価値を持っていて欲しい。そして、これは時々絵を描く私自身に関してもこれは言えることである。否定的な言い回しになってきてしまったが、私はこれらの目的を持ちながら創作している人の創作自体を否定するつもりはない。ただ、不純なものが混ざりがちではあるし、創作のモチベーションにも関わってきて創作者自身にとって勿体ないのではないか。その目的を変えた方がより素晴らしい作品が出来るのではないか。そういうことを私が勝手に思っているだけなのである。私の個人的な思いではあるが、もしこれを読んだ創作者の誰かに訴えかけるものがあれば、私は嬉しい。

 P.S. ここまでで創作を職業にする人、すなわち「プロ」について語っていないことに私は気付いた。私の考えを補足しておくと、プロの人に対してはここまでの内容はほとんど適用されないと考えて良い。それは、他人に見られるために創作をするということが、結果的に「金銭を稼ぐ」という本来の目標達成に繋がるためである。確かに金銭を稼ぐという欲望も不純なものではあるが、そもそもこういう人たち、すなわちプロは芸術活動を行おうとしているのではなく、単純に職を全うしているだけなのである。つまり、それら創作行為は単純に趣味として行う芸術とは無関係といえる。この以上の文は、全て趣味で芸術活動を行おうとしている者に向けた文であり、その点を理解して頂きたい。