間違った頑張り方

 広辞苑によると、「頑張る」とは「どこまでも忍耐して努力する」という意味を指す。また、「頑張る」の由来にはいくつか説があり、そのうちの一つは「我を張る」という単語が由来である、というものである。忍耐と努力。この二つがあって、ようやく頑張っていると言えるらしい。

 さて、では「頑張る」と「努力する」の違いとはなんであろうか。先の定義に則るのなら、「忍耐する」という行為が重なっている以上、「頑張る」という行為は「努力する」という行為よりもより苦労するということを指し示しているようにも見える。この差異を明らかにすることは有意義だろう。では、さっそく私の言葉で言わせてもらうと、「頑張る」とは厳しい立場にいる人間がする行為であり、「努力する」とは恵まれた立場にいる人間がする行為なのである。

 例えば、「仕事を頑張る」や「勉強を頑張る」のような言葉に含まれるニュアンスを考えてみよう。日々苦労している中、それでもやらねばならないタスクや周囲の環境を「耐え忍び」、そして「努力」しているかの様子を思い描くことができる。対して、「仕事で努力する」「勉強で努力する」というような文章にしてみるとどうだろう。恐らくこれを読んだ人々は、「発言者は日々苦労しているというよりは、元々ある程度の結果は出しており、さらなる地位や結果の向上を求めて追加で何か行為を行っているのだろう」というような印象を抱くのではないだろうか。

 頑張ることとは、下の立場の者が行うことである。決して、日々の苦労がない人間が頑張ることなどできない。その苦労を持つ人間をサポートするという努力はできるかもしれないが、あくまで頑張るのは下の立場の者本人である。そして、このことは頑張る人間、努力する人間、その両方が必ず自覚せねばならない内容である。無論、私はこれを自覚していた。

 しかし残念ながら、この二つの差というものは観測者からすると非常にわかりにくい。頑張っている人間のことを努力しているだけの人間である、と思ってしまうことはまだ少ないだろうが、努力しかしていない人間のことを頑張っている人間である、と思ってしまうことはよくあることである。そして、これは一見あまり大きな損害をもたらさないように見えて、実際には大きな損害を出してしまう。つまり、本当に頑張っている人間の意欲を削ぐと共に、努力しかしていない人間をつけあがらせる口実となってしまうのである。

 頑張るという行為には対価が伴う。それは当然時間であったり、体力であったり、金銭であったりする。一方、努力というものは時間さえあれば誰でもできる。なぜなら、努力というものは恵まれた立場の人間がすることであり、最低限の時間とすでに会得している才能を表現しさえすれば簡単に成しえることだからである。努力とは、あくまで「やればできるけどやっていないこと」をやっているだけに過ぎないからである。対して、頑張るという行為は「やっても上手くいくかわからないけどやらねばならないこと」である。この違いは先に論じてきた通り非常に大きい。

 そして、一般に対価を多く払えば払うほど得られる報酬も大きい。それが時間であろうが大量であろうが金銭であろうが、これはどんなものであっても成り立つ普遍的な事象である。このことは現代社会に生きる人間ならばみな自然に納得できることだろう。さらに、ここで最初に述べた「頑張る」は「努力」と「忍耐」の二つで成り立つ、という旨を思い出してほしい。忍耐というものを対価として捉えるのならば、当然「頑張った人」の方が得られる報酬は多くあるべきであり、「努力した人」の方が得られる報酬は少なくあるべきである。なんなら、頑張ることと努力することを同列に語ることすらおこがましい。立場が違うモノ同士を同列に比較できるはずがあろうか。当然、否である。

 また、頑張るという行為も、努力するという行為も、どちらも自分のためにする行為である。もしそれらが他人のために行われた行為なのであれば、それらはそのような言葉ではなく「奉仕」という言葉の方がふさわしいだろう。

 頑張る人間は決して努力のみ行う人間であってはならず、同様に、努力する人間は決して頑張っているなどと騙ってはならない。そのように観測者に思われることすらしてはならない。それは真に頑張っている人間への不敬となるからだ。そして、頑張っているか努力しているか、どちらの場合にせよ、それが奉仕であってはならない。真に自分のために行動しなくてはならない。私は、これらの違いを知ってはいても、実践することは上手くなかったように思われる。自分のすべきことが頑張ることなのか、努力することなのか。そして、自分のしたいことが努力することなのか、奉仕することなのか。それらを明言せず行動することは、周りの人、ひいては自分自身にすら不信の念を募らせることとなってしまうだろう。決して驕り高ぶることなかれ。自分を最小化して捉えるネガティブ思考こそが、頑張ること、努力すること、奉仕すること、これら三つを正確に使い分ける最善の手段となるだろう。と、私は考える。以上、自省であった。